悪い魔女は、林檎の皮に毒を塗りました。
 では、私は、どうやって毒を盛りましょう?



「もしもし、リナ?」
 始まりは真夜中に鳴ったベルだった。
 寝ぼけ眼で携帯を取ると木全和利という名前が表示されていた。
 急いで通話ボタンを押す。非常識な時間にかかってきた電話などに出る義務はないが、相手が彼となれば話は別だ。
「カズくん、どうしたの」
「今、時間大丈夫か?」
 スピーカーから聞こえてきた恋人の声は明らかに緊張していた。
「ちょっと話があるんだけど」
 今すぐ携帯から耳を逸らしたくなるような、嫌な予感がした。
 そのせいですぐに先を促せず、電話口なのに思わず黙ってしまう。
「……何?」
 たっぷり秒針が文字盤を一周するくらいの時間をあけて、私はそれだけの台詞をやっとのことで口にした。
 自覚できるほど、自分の声に震えを感じながら。
「あの、さ」
 次の瞬間、世界から色彩や温度というものが消えた。全てがセピアで絶対零度。
「別れてくれないか」



 しばらくの間、私は携帯を握ったままぼんやりと布団の上で寝転がっていた。
 いきなり与えられた衝撃はぐるぐると回りながら沈殿を形成し、
 その塊は水にも油にも私の心にも溶けこもうとしなかった。
 それどころか、私の右手の中の携帯を核にしてどんどん肥大していった。
「俺には君が必要なんだ」
 いつどこで言われたかは思い出せなかったが、不意に彼の甘い囁きが聞こえた気がした。
 そんな言葉をわずかにでも信じていた私が愚かだったのだろうか。

 頭の中を様々な記憶が行ったり来たりする。
 セロハンを貼られたように偏った色の風景が巡り、
 不鮮明な会話が電波の悪いラジオの如く空中をたゆたい、
 極彩色の夢が目蓋の裏で虚ろに展開されていく。
 その全ては、カズくんと共有した時間の断片だ。
 そして、それらが指し示すのは、日常に見え隠れしていた充分すぎるほどの兆候。

 たまに電話をかけても遠い声。
 久しぶりに会っても終始上の空。
 私に覗くことを一切許さなくなった携帯の画面。
「何か隠してたりしないよね?」という念押しのような疑問文には短い沈黙で返され、
 最近二人で歩く時にはいつもポケットに手を入れられていた。
 それでも信じたかった。少なくとも、私にはカズくんが必要だったから。
 そうだ、このまま終わらせてなるものか。
 だって私は彼がいないと駄目なのだから。
 彼を奪われることに耐えられないのだから。
 今までの幸せを失うことに耐えられないのだから。
 とはいえ、私が今何かを言ったところで彼の気持ちは揺らぐのだろうか。
 未練がましく縋りついてくる女に転ぶことなどあるのだろうか。答えは、おそらくノーだろう。
 ただ、幸いか否か、私は彼と後日直接会う約束を取り付けてから電話を切っていた。

 ならば。

 いっそ、このまま終わらせてしまおう。



 時計が十六時ちょうどを示した瞬間に呼び鈴が鳴った。定刻。驚く程に。
「あがって」
 扉を開けるとカズくんがスーパーの袋を持って立っていた。
「これ、おみやげ」
 言いながら、そのスーパーの袋を私に差し出す。
 白い袋の中はよく見えなかったが、果物だろうか。
 そう考えながらそれを受け取ると、重みでビニールが指に食い込んだ。圧力が痛みを生む。
「ありがと。あとで食べようか」
 彼を部屋の中へ促しながら中を確認すると、そこには丸々とした梨が三個入っていた。
 冷蔵庫に入れようと思ったが、買ったばかりの林檎が鎮座しているせいで梨を入れる場所がない。
 せっかく冷やした林檎をどけるのには躊躇いを感じたが、
 また冷やせば良いやと思い直した私は林檎を取り出してそこで梨を冷やすことにした。
 六畳一間にお情けばかりの台所とユニットバスくらいしかない私の自宅は、
 たった一人の客人が入っただけで非常に窮屈になった。
 とりあえず部屋の真ん中に置いたちゃぶ台に座布団を添え、適当なところに腰を下ろした。
 それを確認したカズくんは私と向かい合うような場所に体を縮めてあぐらをかいた。
 ただでさえ平均よりも身長があるカズくんにはさぞ狭いだろうが、我慢してもらうほかない。

「それで、電話の続きだけど」
 カズくんから切り出すのを待っていたのだが、気まずい沈黙が続くこと三十分以上。
 それに耐えかねて、結局私が口を開いた。
「もう、何を言っても無駄、なの?」
 ひどく感情的になっている私と異常なまでに冷静な私。
 今、私の中にはその二人が同時に存在していた。ただ、どうやら落ち着き払っている方が主導権を握ってはいるようだった。
「少し前にも言ってくれたじゃない。『俺はリナがつらそうにしているのは嫌なんだ』って。あれは嘘?」
 最近は当たり前だからと反対する親を押し切って工学部の大学院に進んだ。
 なのに、勉強も研究も人間関係も何もかもが上手くいかなくて悩んでいた時のことだ。
「あれは嘘なんかじゃ」
「あれだけじゃない。そういう言葉が全部、結果的に嘘になってるんだけど」
 彼を遮って、冷たい言葉が迸る。
「ごめん」
 わずかな間を置いて謝るカズくん。彼は俯いていたが、ばつの悪そうな顔をしているのがちらりと見えた。
「私、カズくんの言葉を信じてたんだよ」
 視線でちゃぶ台の木目をなぞりながら呟く。
 シンプルな言葉だけに彼にはどのように響くのだろうかという疑問が頭をよぎったが、それを訊く気にはならなかった。
「……梨奈」
 突然、彼が私の名前を呼んだ。いつもとは違う声の響きに、淡い期待が胸をよぎる。
「なに」
 もちろん、それは裏切られる期待だと分かっていた。それでも。
「やっぱり、ごめん」
 私は視界が歪むのを感じた。いや、私の世界が歪むのを感じたと言った方が正確だろうか。
 たった一言なのに、ひどい重さだ。
 それを聞いて分かることはもう私が何を言っても彼の気持ちは変わらないということだけではあったが、
 その一つが充分すぎるほどの質量を持って私にのしかかってきた。
「ごめん」
 何の枕詞なのだろうか。同じ台詞ばかり繰り返して。
 そう思ったが刹那、感情的な方の私が飛び出てきて非難を浴びせようとしたがそれは続く彼の言葉に遮られた。
「別れてくれ」

 改めてとどめを刺され、私は少しの間硬直してしまった。
 何を言えばいいのか。
 何をすればいいのか。
 しかし、それほど考えなくても、帰結は既に出ていた結論へ。
 後戻りは出来ない。
 いや。
 そもそも前進などしない。

「――うん、分かった」
 私の言葉を最後に、重すぎる沈黙が私たちを覆った。



「さっきの梨、食べよっか」
 数分の間私たちを隔てていた沈黙を破るようにそう言って立ち上がると、
 重苦しい雰囲気を少しは振り落とせたような気がした。かといって現実は何一つ変わらないのだけど。
「ん」
 カズくんが頷いたのを横目で確認して冷蔵庫の梨に手を伸ばす。
 触ってみると、キンキンという程ではないが果物ならちょうど良いというくらいに冷えていた。
 シンクで梨を全部すすいで、さすがに三つも食べないんだろうなと思いながら、キッチンペーパーを取り出して軽く水気を吸う。
 それを抱えたまま戸棚からまな板とナイフを取り出し、一緒にまとめてちゃぶ台に置いた。
 狭すぎる台所には調理場が無い。だから、私はいつも料理をするときは同じようにちゃぶ台で食材を刻むのだ。
「手伝おうか?」
「いや、大丈夫だよ」
 カズくんの申し出を断ると、私は手近にあった梨を一つ取った。
 しゅるしゅる。皮と果実の間を刃が裂いていくのにあわせて、みずみずしい音が部屋に響く。
「あ、お皿」
 ナイフを軽快に滑らせながら、切ってから梨を盛りつける皿を用意していなかった事に気がついた。
「このままでいいよ、別にまな板の上だってそんなに汚れてないし」
 立ち上がろうとしたところをカズくんに止められたので、私も盛りつけについては気にしないことにした。
 
 しかし、気になることがもうひとつ。

「ちょっとナイフ研いでくるね」
 そう言い残すと、私は再び台所へと立った。

 ざく。ざく。ざくざくっ。
 四等分して芯を削ぎ落とすと、決して美しいものには見えなかった梨がそれだけで急に美味しそうに思えた。
 これが銀のフォークを添えられてお洒落な器に乗っていたらもっと良いのに。
「はい、どうぞ」
 カズくんにすすめながら、そのうちの一切れを取る。
 わずかに躊躇った後、それを口に運ぶと甘酸っぱい香りがふわりと広がった。美味しい。
「ありがと」
 彼の手が伸び、梨を掴む。その姿を見つめながら、私は心の中で笑った。

 それは、きっととても嗜虐的な笑顔。



「ねぇ、カズくん」
 ごく普通の六畳間の真ん中に、ごく普通のちゃぶ台。
 これといった特徴のないまな板の上に、梨の欠片が四つ。
 そのうち二つは食べかけで、無造作にまな板の上に置かれていた。
 しかし、そこにいる私たちの状況はお世辞にも普通とは言えそうになかった。
「カズくんってば。聞いてる?」
 恋人、否、元恋人に問いかける。夕焼けの鮮やかなオレンジ色が彼の頬を染めていた。
「……リ、ナ」
 掠れた声で、彼は私の名前を呟いた。
 額からにじむ脂汗。
 大きく見開いた瞳には恐怖の色。
「全部、カズくんが悪いんだよ。私のことを捨てようとするから」
 手に持っていた台ふきを放り投げ、足もとに転がった彼の顔を覗き込む。彼の表情に怯えの色が加わった。
「誰かに取られるくらいなら、その前に誰の手も届かないようにしようと思って」
「どう、し、て」
「それは、こんな事をする理由? それとも、こんな事ができた理由?」
 好きだからだよ。
「びっくりでしょ? 同じ梨を食べた私は平気なのに、カズくんだけこんな目にあってるんだもんね」
 そう言いながらにっこりと笑うと、彼は何か言いたげに口をぱくぱくと動かした。話すことさえ困難なのだろう。
「白雪姫って知ってるよね」
 彼の反応が見たくて、言葉を続ける前に一拍置いた。今の彼に相槌が打てるとは思っていなかったけど。
「白雪姫は、悪い魔女に毒を塗った林檎を食べさせられて覚めない眠りについてしまいました。
 七人の小人が何をやっても彼女は目を覚ましません。
 しかし、最終的に彼女は救われるのです。心優しい素敵な王子様の接吻によってね」
 大きく開かれていたカズくんの瞳から少しずつ力が抜けていく。彼の意識はもう長くはもたないだろう。
「カズくんも呼んでみたら? 性別が逆だから助けに来るのは……お姫様か、まぁ誰でも良いんだけど、
 案外誰か来てくれるかもしれないよ?」
 そう。誰でも良い。彼にとってのお姫様は、もう私ではないのだから。それに。
「ま、今から呼んでも間に合わないと思うけどね」
 同時に、強張っていた彼の体が不自然に弛緩する。二時間サスペンスでよく見るようなワンシーン。
 彼は二度と笑わない。でも同時に、彼はもうどこにも行かない。
 そう思った瞬間、無性に愛しさがこみ上げてきた。
 指で半開きになっていた彼の目蓋をそっと閉じる。
 それまで苦しみに歪んでいた顔は、いつの間にか安らかな表情に変わっているように見えた。
「おやすみ」
 二度と目覚めることはないだろうけど。



 しばらく彼の顔を見つめた後、彼をひきずって布団へと運んだ私は
(別にそんなことをする必要など無かったけれど)部屋の片付けを始めた。
 まず、表面の水分が蒸発してしまってあまり美味しそうではなくなってしまった梨をゴミ袋へ投げ入れる。
 明日はちょうど可燃ゴミの日だ、今夜のうちにゴミ捨て場に持って行こう。
 次に、ちゃぶ台に置きっぱなしだったまな板とナイフをシンクに運ぶ。
 流し台にまな板を置くと、私は蛇口をひねる前にナイフの刃の左側をキッチンペーパーできれいに拭った。
 気休めだろうけど、やらないよりはマシだろう。

 そして、一通り片付けが終わった頃。
 視界が不自由になっていることに気づいて外を見やると、沈みかけていた陽は地平線の向こうに行ってしまっていた。
 薄暗い部屋を静寂が包む。
 洗い物を終えた手をタオルで拭く。仄かに残った太陽光がカズくんの横顔にあたる。
 特に何がしたいわけではなかったが、なんとなく彼の隣に座り込んだ。
 その時、横たわったままぴくりともしない彼と私の指先が触れあった。

 本当は、白雪姫の目覚めは決してロマンティックなものではなかった。
 殴られたはずみで、毒林檎の欠片が口から飛び出すのだ。それはそれで今度はご都合主義にしか思えないのだが。
 殴られた、はずみで。時間をかけて、その言葉を何度か咀嚼する。

 ぱんっ。

 耳を裂くような打音がした。
 いつの間にか、私は自分でも予想していなかった行動に出ていた。
 横たわる彼の左頬に、思いきり平手打ちを食らわせたのだ。
 しかし、それはまったく非生産的な行為に終わった。当然だ。これは童話ではないのだから。
 現に、すぐ静けさが戻ってきた。
 どうしようもない閉塞感を伴ったそれは私を丸ごと潰したがっているようで、私は呆然と座り込む以外に何も出来なかった。

 どれくらいそうしていただろうか。突然の思いつきで立ち上がり、部屋の窓を開ける。
 私のいる空間が物理的に外と繋がっただけではあったが、部屋に差し込んだ冷たい秋風を吸うと少しだけ楽になった気がした。

「おやすみ」
 窓の外に浮かぶ満月を見つめながら、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
 きっと彼には届いていないのだろうが。
 もはや、そんなことはどうでも良かった。
「おやすみ。――良い夢を」
 終わらない夢なら、せめて素敵なものだといいね。

 頬を撫でる風につられて何気なく振り返ると、遂に食べられることのなかった梨が二つ寄り添うようにして並んでいた。
          ペア・オブ・ペア
 月の光を浴びて輝く二つの梨は、私が失った幸せを象徴しているようだった。